名東区のお店・名東区の習い事教室・名東区の塾・名東区の学校・名東区イベント・名東区の裏技なら、名東区のことが何でも載ってる口コミサイト


名東どっとコムでは、名東区民の方々に役立つ情報掲載・広告掲載・取材依頼・特集記事依頼をお受けしております。協賛してくださるお店・事業店様はこちらよりご連絡下さい。追って詳細のご連絡を差し上げます。


Topページに戻る



 名東区の歴史を紹介します!
   
   名東区、そして名東区の町々の発祥、歴史

平成18年11月25日

★「極楽」の由来★


確か、雑学を紹介する人気テレビ番組の「トリビアの泉」でも紹介されたことがあると思うのですが、名東区には皆さんもご存知のように全国的に有名な「極楽」という地名があります。極楽小学校から老人ホームの極楽苑までそろっています。もちろん、バス停も「極楽」があり、バスのアナウンスが「次はぁ〜。ごくらくぅ〜。ごくらくです。お降りの方は、ブザーを押して下さい」と流れます。悪いことばかりしてきた私としましては、急いで降りたくなる衝動に駆られるわけです。

ところで、皆さんはこの地名の由来をご存知でしょうか。地名と言うのは、ほぼ必ずそれに対する由来があります。何かを記念した地名であったり、有名な出身者に由来する地名であったり、例えば中国や朝鮮半島から来た人たちの苗字に由来するものであったり、南方系の民族の言葉がもとであったり、それはそれはさまざまなのです。では、この日本一(?)変わった地名の由来はなんなのでしょうか。

現在のところは二つの説があるようです。まず一つ目は、この名古屋の東部は元々丘陵地で(よって○○ヶ丘という地名が多いのです)庄内川近辺や木曽川近辺にある低湿地で住んでいた人々が、さんざん洪水に悩まされて移住を決意。はるばるこの地域まで移住し、水害におびえなくてもすむ=「極楽だ」と言いながら安息の日々を送ったという説。

もう一つは、1584(天正12)年に起こった、東海地方の三英傑と呼ばれる豊臣秀吉と徳川家康が争った唯一の戦争である「長久手の戦い」の際に負傷した兵たちがこの地方に逃げ込み、この地方の住民が協力し安息を得たので「ここは極楽だ」と言ったことに由来するというものです。

上記二つの説は、地形や歴史的事実との兼ね合いから「なるほど〜」と納得できるものですよね。実は、これ以上に興味深い話があります。名東区は「極楽」だったかもしれませんが、その反対に負傷兵にとって「地獄」と呼んでも差し支えない場所も当然存在するわけです。

「極楽」は、長久手から見て南西の方角にあたります。”長久手の戦い”で運よく南西に逃げた負傷兵たちには「極楽」があったのですが、地獄を見たのが運悪く反対の北東へ逃げることになった負傷兵たちです。
「地獄」へ逃げた負傷兵は、村人に自分たちをかくまうようにお願いをしたのですが。ちょうど4月の時期で鯉のぼりを立てる準備をしていた村人たちは、後に自分たちに危険が及ぶのを恐れて、なんと手に持っていた鯉のぼりを立てるための棒で、負傷兵たちを撲殺したのです。全員を殴り殺すと言うまさに阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されたのです。

そして、実は話はそこで終わりません。それ以来、その村では鯉のぼりを立てるとその家の子どもが謎の死を遂げるようになったそうです。
このことをナント説明するべきか・・・・・・そう、負傷兵の呪い・・・・・・かどうかはさだかではありませんが、それから400年以上が経った現在でも瀬戸市のとある町では、鯉のぼりは縁起の悪いものとされ、空を泳ぐことはないそうです。

ちなみに、江戸時代初期の「寛文覚書」には、この地域に”極楽池“が記載されていることが分かっています。よって、江戸時代の前の戦国時代〜安土桃山時代に由来されるというのは、十分ありえる話ではないでしょうか。



戻る

★名東区のおこり★



 愛知県図書館に行くなどして色々と調べていると、面白い情報が次々と出てきます。

 まず驚いたのが、名東区の歴史が意外と(?)浅いと言うことです。名東区ができたのは1975年の2月1日。今から31年前です。千種区の旧猪高村の部分と、昭和区の梅森坂が合併して「名東区」になりました。名前の由来は、名古屋の東であることと、東名高速の名古屋インターがあるところからということだそうです。

 名東区の大部分を占める「猪高村」の歴史も気になって調べてみました。大体、なんで「一社」を「イッシャ」と呼ぶのに、「高社」を「タカヤシロ」や「上社」を「カミヤシロ」と呼ぶのかが謎でしたし、そもそもの「社」というのはなんなのか。なぜ「猪」なのか・・・・・・やっと色んな事が解明されてきました。

 まず、猪高村は、明治34年の町村統合で「猪子石村」と「高社村」が合併してできました。つまり、「猪子石」と「高社」の頭文字を取って「猪高」になったということです。
 ちなみに、それ以前は、「猪子石原村」「猪子石村」「藤森村」「上社村」「下社村」「一色村」「高針村」に別れていました。
 明治22年の町村制施行で、猪子石原村が東春日井郡、それ以外の村は愛知郡に属していました。
 「一社」という地名は、「一色村」と「下社村」がくっついてできた地名のようです。

 さらに時代はさかのぼり、なぜ「猪子石」というのか、なぜ「社」というのか、なぜ「高針」というのかなどはまた近いうちにお知らせします。

 こういうのって面白くないですか?



戻る

★猪子石の発祥★


色んな名東区関連のサイトで、この「猪子石」の名前の由来としてあげられているのは次の逸話です。



(以下、猪子石中学のホームページhttp://www.inokoishi-j.nagoya-c.ed.jp/framepage3.htmより引用)

猪子石村には、大昔から猪が寝ているような形をした大きな石がふたつあった。そのうちの一つは香流川の南にあり、小さな石がいくつもくっついていて、まるで子どものようだったので、牝石と呼ばれていた。ある日、どういうわけかお産がみんな難産だという村の一人の出産間近の女性がやってきてこの石のように多産な猪にあやかろうと猪子石に祈願した。すると無事に出産を終えることができたので、その事が評判になり、みんな出産が近づくとこの石の所にやってきて安産を祈願するようになった。やがてこの石の前に鳥居を建てられ、神社として敬われるようになった。

(引用終わり)

これは、完全な言葉による伝承。言い伝え(口伝)です。ただし、いろいろと調べると「猪子」というのは、猪の子というよりも「亥の子」そのものと考えたほうが良さそうだと思えてきます。

「亥の子」とは、古くから日本に伝わる伝統行事の一つで、猪の子供が子沢山であること、また猪が山の神様のお使いのように考えられたことから、旧暦の10月初め(現在の11月ごろ)の亥の日に、その家の繁盛を願い、またその年の豊作を感謝するために庭をわらで巻いた棒のようなものでたたいて回る行事のことです。亥の子では、「亥の子石」という直径20cm〜35cmぐらい五輪型という円形石の中央部分の横一文字に鉄の輪を付けそれに縄(昔は稲穂のわら縄)を付けて庭先の土の上を上下させ突く風習です。(詳しい情報はこちらhttp://www.viva-takaichi.co.jp/11maturi/b_01.html)


この「猪の子供形の石」は花崗岩でできているそうなのですが、実はこの台地周辺にあるものではありません。よって、地理的に考えると、三河(花崗岩の産地で最も尾張に近い)から運んできたと考えるのが適切ではないでしょうか。

もともと露出していた猪子石は数個の石で組まれていたようです。一般的な古墳は同じ形でつくられます。よって、これは元々この地方に住んだ古代人の首長の古墳であると考えるのが妥当のようです。

先日取材した、筒井タカヤ県議の話によると元々「亀の井」という地名も「甕の井」からきていて、「甕=甕棺墓」 「井=深い穴」つまり、古代のお墓だったということでした。

つまり、ますますこの「猪子石」=古墳発祥説が信憑性を増してきたなぁと思うわけです。

古墳時代からの面影を今に残すこの「猪子石」という名前・・・・・・そう考えるとロマンにあふれませんか?

戻る

★社の発祥(1)★


元々、一つの「社村」が「上社村」「下社村」「一色村」の3つに分かれました。その「社」とは何なのか。

伝承によると、第十二代天皇である景行天皇(日本武尊<ヤマトタケルノミコト>の父親)の統治25年の時に、武内宿祢(たけのうちのすくね)が諸国を巡察しました。その時に、この地域の田畑が荒れに荒れているのを発見しました。そしてそれは水の通る道がないからであると判断しました。そして、自らと共に諸国をまわっていた白鷹の羽で作った矢を、その地域に住む民に授け、「水神の岡象女命(みつはめのみこと)をまつりなさい」と教えました。

そこで、その地域に住む民は祠(ほこら)を立てて、矢を御神体(その神社の信仰の中心)とした岡象女神をまつったのです。

 つまり、羽の矢が白いから「矢白」と呼ばれ、それが転じて「社」になったということです。(ちなみに、その矢白神社は現在の貴船神社です)

 まぁこの話は名東区民でなければ大したことはないかもしれませんが、名東区民としては”へぇ”と思えることじゃないでしょうか。

戻る






★社の発祥(2)★


社の発祥に関しては、こんな子供の用の話もあります。

「白い矢」 

 昔むかし、名古屋の東の辺りは、丘がずっと続く静かな村だった。村人は小さな池を作り、水を大切に暮らしていた。

 ある年、田植えをしてもう十日にもなるのに、雨は一粒も降らなかった。二十日たっても だめだった。稲は枯れはじめ、イモの苗は黄色くなった。
   
 村人達は、この前の飢饉を思い出した。食べる物といえば、木の根っこしかなかった。村人達は丘の上に集まって、天の神様に 雨を降らせて欲しいと祈りはじめた。
   
 三十日たっても雨は降らなんだ。とうとう池の水は からから になってしまった。

 ちょうどその時、都の『武内宿祢(たけのうちのすくね)』という方が大勢の家来を連れてお通りになった。
   
 「これは気の毒なことじゃ。私がこの村を通りかかったのも何かの巡りあわせであろう。」

 と言って、一本の白い矢をお出しになった。

 「珍しい白い鷹の羽で作った、大切な矢じゃ。これを授けよう。この矢を地面に真っ直ぐに立ててお祈りすれば、これから水に困ることはないだろう。」

 村人は、さっそく地面に白い矢を立てて、周りに集まり祈りはじめた。白い矢がピクッと動いた。矢の周りの土が黒く湿ってきた。みるみるうちに、矢の周りに小さい水溜りができた。

 「み、み、水だぞおー!」

 矢の周りから、こんこんと水が湧き出した。みんなは肩をたたきあって喜んだ。

 水は一筋の流れになって、畑や田んぼの方へ進んでいく。
   
 村人は、流れにそって走り出した。流れの中を走る者もいる。流れの中を跳ねている者もいる。

 「おーい。俺の畑に水が来たぞぉ。」
 「うちの田んぼに水が入ったぁ。」
 「ありがたいのぉ。」

 村人たちは踊り出した。おーいおいと泣きながら踊っている者もいる。

 宿祢はこれを見ると、黙って立ち去れた。
 村人たちは、お礼をいうのさえ忘れていた。
 日が西の空に沈みかけていた。
 丘の上の白い矢が、金色に光っていた。

 村人たちは、白い矢を祭った神社を「矢白神社」と呼んで大切にした。
   
 この村の名もいつの間にかヤシロ村というようになった。


 ◆ お話の舞台 ◆
 名東区に残る上社、下社、一社などの地名は、矢白神社に由来するといわれている。かつての矢白神社は、現在は貴船社と呼ばれている。
 (現在 名東区 上社・一社)

 ― 愛知県小中学校長会編「あいちの むかしばなし 5  やすらひめ」


戻る

高針の発祥

一色の発祥

社の発祥(1)

猪子石の発祥

名東区の起こり

平成19年 5月14日 更新
トップページへ戻る
名 東 区 ど っ と コ ム
Copyright (c) 2006 Meitouku.com . All Rights Reserved.
本サイトに掲載されている画像・文章等、全ての内容の無断転載・引用を禁止します。
極楽の由来

★一色の発祥★

「一色」の発祥(社村の分村・一色村)

室町時代、第10代将軍足利義稙(あしかがよしたね)の頃に、「社村」が分かれて「上社村」「下社村」「一色村」に分かれたようです。

一社地区に今も残る、神蔵寺の記録によりますと、1504年以降の「永正年間」になって「一色村」神蔵寺となっており、それ以前は「社村」神蔵寺となっていることがその証拠の一つです。

では、なぜ1つの村が3つにわかれる必要があったのでしょうか。実は、この事に関しては記録もありませんし、伝承もありません。しかし、歴史的・合理的推測はできます。
当時は、織田信長で有名な「織田氏」の統治の前の、斯波氏の統治下でした。国司である斯波義廉は1475年に応仁の乱後の京都の混乱を嫌い、尾張地方に流れてきています。(当時、県知事ともいえる”国司”は、その役職にありながらも地方には住まずに、京都に住んでいるものでした)

織田氏はそれ以前から(斯波氏の)守護代として尾張を治めていました。(守護代=通常は京都にいる守護の代わりに地方を治める役職)ちなみに、その当時の県庁所在地とも言える国府は清洲にありました。(そんな訳で、信長は清洲城で生まれたんです!)

このとき、一色村は、一色城主柴田源六勝重によっておさめられていたと考えられます。この人も義廉と同じ頃にこの地域にきた人で、神蔵寺の寺伝には足利家9代将軍義尚の家臣となっています。

そこで、推測が出来るのが、多分、室町幕府における「四職(ししき)」の担当家の一つ、一色家と何らかのかかわりをもった人ではないかと考えられます。

それが由来となり、一色村となったのではないかということです。

ちなみに、この頃の猪子石城・城主は横地氏であり、上社城・城主は加藤氏、岩崎城・城主は丹羽氏、天白城・城主は横地氏で、柴田勝重が京都から連れてきた家来に、浅野氏・宮地氏・小澄氏がいますが、これらは今も「地主」として多い姓ですよね。


*注:四職(ししき)とは、室町幕府で侍所の長官になれる家柄です。
赤松家・一色家・山名家・京極家の4つです。

戻る

★高針の発祥★

高針の発祥

一般的に、「針」というのは、墾(はり)又は治(はり)・・・・・・つまりは開拓・開墾からきているとされます。尾張という土地はそもそも、「お墾田(おはりだ)の水」といわれるように、水田開拓と大いに関連があるそうです。(濃尾平野は日本でも最高クラスの平野地帯でしたよね?!だからこそ織田氏が強くなれたとも言われています。すごいですね〜。こういうところと地名は関連してくるんです)
「高針」は、天白区の平針(平らなところに開墾した)に対して、高いところを開墾したから高針と呼ぶようになった・・・・・・と、津田正生先生は仰っています。

戻る

社の発祥(2)